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「スピリチュアルサイエンス」の時代
数々の発見、発明、研究、創作をした科学者や発明家、芸術家たち。彼らは瞬く星のようだ。彼らの魂の人生、功績が星の光となって世界を照らしている。星の光が地球に届くまでに時間がかかる。今見えている星々は、歴史上の人物のように、もうすでに死んでいるかもしれない。
なぜ、彼ら(科学者や発明家、芸術家たち)はそのこと(発見、発明、創作の内容)に気が付くことができたのだろう。 なぜその時、その人物でなければならなかったのか。科学史、数学史、音楽史などには不思議な一致がある。それぞれ無関係に見える研究分野や芸術作品が、不思議と関連しあっているのである。不思議な共時性があるのである。星々が宇宙という一つの空間でつながっているように、潜在意識という宇宙で一つにつながっていて、相互に関連しあっているようだ。
私たちはどこからきてどこへ向かっているのだろうか。将来、物理、化学、数学などの科学分野と、音楽、美術などの芸術分野、心、魂などのスピリチュアル、宗教などで説かれる精神法則を貫く統一的な宇宙法則や理論(スピリチュアルサイエンス)が確立されるだろう。スピリチュアルサイエンスの時代がやってくる。トリニティーの時代がやってくる。私たちは、夢と真理、哲学を自らの内に持たなければならない。それが新しい時代を創造する力となる。
(解説)
・四学史…中世ヨーロッパの大学では自由七科として、文法、修辞学、弁証法(論理学)の三科と、天文学、数学、音楽、幾何学という四科が設定された。このうち四科を中心に(四科だけではなく)、科学史(物理、化学など)、数学、芸術(音楽、幾何学、美術など)と、科学技術史(発明)、や宗教、哲学、スピリチュアルの法則の発見やそれらが説かれた年代を含めて年代ごとにまとめたものである。これを私は、ここでは四科ではなく四学の歴史、四学史(しがくし)と呼ぶことにする。
この宇宙には、まだ科学では解明されていない法則や仕組みが存在するはずであり、また、DNA構造など、自然界には、私たち人間を超えた大いなる存在(創造主、設計者)の意図があるとしか感じられない構造や現象が存在する。彼ら(科学者、芸術家など)はもともと宇宙に存在した法則や美、設計図を発見したに過ぎないのである。それらの発明、発見が起こった絶妙な歴史的タイミングも含めて、それらをコントロールする何らかの意思が働いているのではないだろうか。そうしたことを、分野を超えて研究することが、四学史の目的である。
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「東北」という神秘
(西洋の)科学史、音楽史を研究し深めていくと、東洋(とくに日本)が世界的にとても特殊な場所であることに気づく。西洋(欧米)では、科学が宇宙自然の仕組みや法則、真理を理解する手段として用いられた。そして西洋では(キリスト教の影響もあり)、「神」とは、この宇宙自然、万物を創り上げた「創造主」のこと、またはそれらを司る法則や真理(摂理)を指す。物理学者も、数学者も、哲学者も、芸術家も、その法則や真理、美を発見し、創造主に近づき、唯一絶対の創造主(神)の意図を解き明かすことにエネルギーを注いだ。
ところが、日本に来ると、この「神」という言葉が指す意味が少し変わってくる。
日本でいう「神」とは(これは私が感じたことだが)、創造主、法則や真理というよりも、「その場(空間)そのものと、そこに流れるエネルギー(気配)のこと」を「神」と言っているのではないだろうか。「八百万(やおよろず)の神」と言われているように、日本では山、川、滝、岩、石、木にも、神が宿ると昔から信じられてきた。また日本では、「神」という言葉は、特別な聖人や宗教指導者以外の人物に対しても、その人への尊敬を込めて用いられる。それは、宇宙そのものであり、自然そのもの、「場(空間)」そのもの、その人が放つオーラや存在そのものの気配、波動なのである。日本人にとって「神」とは、「解き明かすもの」ではなく、「感じるもの(場、気配、存在そのものがもつ波動)」なのではないか。それは、頭で理解するものではなく、心で感じなければならない。
逆に日本人にとって科学とは、解明するものではなく、学ぶもの、そして生活を豊かで便利にするために利用するもの、という意識が強いのではないか。だから、科学(Science)と科学技術(Technology)がしばしば日本では混同され、同じような意味で用いられる。
日本では、自然、宇宙はもともとそこに存在するものであり、自然とともに生活(共生)し、その恵みをいただくものであるから、自然を解明する必要がない。もっと言えば、解明する、という発想がそもそもない。科学研究において、ほかの諸外国に比べて、基礎研究の土壌が日本ではあまり育たないのは、こうした神、自然に対する価値観、宗教観があるからなのかもしれない。
日本人のこうした神、宇宙、自然に対する考え方(世界観)は、どこからきたのか。
それは、はるか昔、縄文時代ではないかと私は思う。東北地方(特に秋田、青森、岩手などの北東北)には数多くの縄文遺跡が残り、白神山地を代表するブナの豊かな森が広がっている。また、同地域では今もマタギとよばれる人たちが暮らしている。(2021年、北海道、北東北の縄文遺跡群が世界遺産に登録された。)
東北は不思議な場所である。とくに平泉以北と、それ以南では全くと言っていいほど様子が異なる。日本人の神に対する考え方の原点、「場の空気(気配)」が、東北には今もある。それは言葉にはできない。実際にその場に行って「体感」してきてほしい。まさに神秘というほかない。地層が、古い地層ほど下に沈み、新しい地層ほど上に積みあがるように、文明も、「場」も、新しい文明ほど移り変わりが激しい。たまに、古い地層が表面にむき出しになり、大昔の原型が保存されているような場所がある。東北(平泉以北)は、まさにそんな場所なのである。時代の流れや、風化、侵食にさらされることなく、縄文(神代)の場の気配、自然が今なお息づいている。これは奇跡としか言いようがない。大多数の日本人や、日本に来る外国人の多くは、京都、奈良が日本の歴史を学ぶ上で重要と感じているが、その大元、原型は、東北(縄文)の場と気配にあるのではないだろうか。ぜひ、その場の気配を感じてきてほしい。日本とは何か、日本人とは何者か、宇宙、自然、神とは何か、人間とは何か、自らの存在理由など、感じるうえで、東北は、とても重要な場所である。
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